その時、会議室は凍り付いた!

「司法書士の古橋と申します。早速ですが、抹消書類を確認させてください」

今日は何度この言葉を口にしただろうか。抵当権者である金融機関が8行。集合時間である午前10時を待たずして次々と応接室に入ってくる。

 部屋の一番奥には、一時は3店舗のスーパーマーケットを展開してきた社長がうつむき加減で腰掛けている。2年ほど前にお会いした時は、スーパーマーケットの裏方で白い長靴を履いて快活に笑っていたが、今は見る影もない。

 ここは、地元で最も有力な地方銀行の会議室であり、歴史を感じさせる重厚な建物の造りは緊張感を増幅させるのに十分である。

 会議室には、社長、社長が依頼した弁護士、債権者である8箇所の金融機関の職員、滞納処分で差押をした市の職員2名、スーパーマーケットの跡地を購入するディベロッパーの社員2名、不動産仲介業者2名という物々しい面々が集まった。そして、8箇所の金融機関の職員の手を通じて次々に提示される抵当権抹消書類をチェックする私に注目が集まっている。私は、いやでも強烈な視線を感じながら、「では、次の債権者さん、えー、〇〇銀行さん、お願いします」と平静を装いながらチェックを続ける・・・・・・。

97fb7392f67d416e9864de83d6ae0e4f_s どうしてスーパーマーケットが倒産に追い込まれたのか私は知らないし、ここで誰も社長を責めるような事は言わない。とにかく、今日は、社長名義の不動産をディベロッパーに売却して、その代金で8件の銀行と市に支払いをするためだけに集まっているのだ。

 普通の不動産取引であれば、私が行うべき登記必要書類の説明と確認は、せいぜい10分ぐらいあれば終わる。しかし、今日は、売買の対象となっている不動産の数も多いため、どうしても確認作業に時間がかかる。ふと時計を見ると、10時15分を回っていた。10時10分前から確認作業をしているので、25分もかかっていることになる。

 「抵当権の抹消書類は全て揃いましたので、所有権移転の書類を確認させてください」

 私は、社長と弁護士に向かって所有権移転登記に必要な書類の提示を求めた。もっとも、今日のような複雑な取引は書類確認に時間がかかることはわかっていたので、社長に署名してもらうべき書類は事前に弁護士に渡していた。

「では、これをお願いします」

 弁護士は、黒革の鞄の中からひとつのビニールファイルを取り出し、そのまま私に手渡した。

 確認すると、登記に必要な不動産の権利証や社長の印鑑証明書などの書類はすべてビニールファイルに入っており、事前に弁護士に渡してあった書類も、署名すべきところに署名がされ、ビニールファイルに収まっていた。ただ、印鑑はまだ押されていなかった。

「社長さん、実印はお持ちですか」と聞くと、社長はポーチのような小さなバッグから印鑑を取り出し、「先生、押してください。最近、手が震えるもんで」と私の目の前に置いた。

「そうね、プロに押してもらった方がいいよ」と弁護士も社長に同調する。

 司法書士は印鑑を押すプロではありませんよ。そういう訓練は受けていませんよ。と腹の中では言っているのだが、どういうわけか世間では「司法書士は印鑑を押すプロ」になっているようだから、サービス精神旺盛な私としては、印鑑押しのプロのような振る舞いをすることになる。

「そうですか、それでは印鑑をお借りします」

 さすがに実印を拝借して押すのだから、印鑑を手に取るときは一言断りを入れるのが礼儀というものだ。しかし、実は、いつもここである悩みが頭を駆け巡るのだ。

 民事訴訟法という法律の228条4項は、「私文書は、本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する」と規定している。「私文書」とは公文書でない文書のことで、登記手続のために作成され、売主が署名押印する書類は「私文書」である。この私文書について、本人又はその代理人の意思に基づく署名又は押印があるときは,その文書全体について間違いなく作成されたものと推定されるわけである。

 印鑑を預けられた私は代理人なのか? いや、そうではないだろう。印鑑を押すことを頼まれただけだ。言ってみれば、本人の意思にもとづいて機械的に動いているロボットのようなものじゃないか。

 だから、「印鑑をお借りします」とか「〇〇の書類にハンコを押しますね」などと言いながら、ひとつひとつ本人の意思を確認しながら押すようにしている。

 もっと言えば、最高裁の判例では、印影が本人の印章によって顕出されたものであるときは、反証のない限り、本人の意思に基づいて顕出されたものと事実上推定されるとしている。あとで「知らなかった」「古橋が勝手に押した」なんて冗談でも言わないでくださいよ、社長さん。さあ、押しますよ!

 こんなことが頭の中をぐるぐる駆け巡る。が、こうした晴れ渡らない私の気持ちを果たして何人の人が理解しているだろう・・・・・・。

 そんなことを考えつつも、不動産取引の決済という緊張感のある場面であるので余分なことは言わない方がいいと決め込み、私は、頼まれたとおり、「印鑑を押すプロ」の形相になりきり、儀式を遂行するのだ。

「印鑑を押すプロ」としては、まず、押印する前に実印かどうか確認の儀式を行う。まず、印鑑証明書に写し出された印影を眼球の奥の方のスクリーンに焼き付ける。そして、実際の印鑑の紋様をおもむろに見る。左右が反対になっているので、イマジネーションを膨らませて紋様の天地を確認するのと同時に同一性を確認する。

「天」の側に人差し指の腹を当て、親指と中指で「地」側を支えると3本の指の間にハンコがスッポリと収まる。多くの場合、人差し指の付け根に印面の反対側が当たり、程よい力加減を印鑑に伝導するポジションを取ることができる。

 印鑑証明書に印刷されている印影と印鑑の紋様との同一性に疑問があったり、同一がどうか自信がない場合は、「試し印」を押してみる。「試し印」は、極力、何か印刷された紙の隅っこに押す。決して何も印刷されていないコピー用紙には押さない。「後から何か書き込んで悪用するんじゃないか」と思われるのは厭だ。

 幸い、社長のハンコは特徴的な紋様であるので、おそらく印鑑証明書の印影と同一であると思われる。試し印はしないこととした。

 そして、朱肉に印鑑を押し当てる。朱肉に朱の油がどの程度しみこんでいるのか目視で観察し、押し当てる力具合を変える。押し当ては1回のみ。ポン、ポン、ポンと、3回ぐらい押し当てる人が多いが、朱の油が紋様の隙間に入り込んで印影がつぶれるのを防ぐために、押し当ては1回がいいだろう。

 押し当てる場所は、朱肉の真ん中。朱肉の隅の方は割合と朱の油が多く染みこんでいて、これもまた、印影がつぶれる原因となる。

 そして、署名の右横に印面を当てる。印面と紙を平行にして、印面を垂直に落とす。印面を見ながら印影の上下を目で確認しながら印鑑を斜めにして印面の縁を紙に押し当て、その状態から印鑑を垂直にして押印する人もいるが、これは印影がひずむ原因となるのでやめた方がいい。

 印面を垂直に落としたら、印鑑を時計回りに回すようにして紙に押しつけるが、傾斜の角度はせいぜい5度ぐらいがいい。あまり入念に押しつけると、印鑑証明書の印影には出ていない影が出てしまうことが稀にあるのでほどほどでやめる。

印鑑が欠けて一部の印影が出ないことはよくある。特に縁の部分が欠けていることが多い。しかし、印鑑証明書の印影が一部欠けているのに、押してみたらつながっていたということになると、「違うハンコ」と疑わざるを得ない。欠けているところはちゃんと欠けていなければいけないのだ。

 そして、印鑑を紙から離すと印影がきれいに出ている筈だ。この印影を確認し、私が「OKです」と言うと、一気にお金が精算される。

 買主のディベロッパーは本社の経理に電話して振込を指示する。売主は振り込まれた代金から抵当権者に借入金を返済したり、市へ滞納税金を支払う。仲介の不動産業者がそのための送金伝票を既に取りまとめており、私がOKを出したら銀行の担当者に詳細を伝えようと身構えている。だから、私が印鑑を紙から離した後にどんな印影が残っているのか、全員が固唾をのんで待っているわけだ。

 私は、セオリーどおり、社長から借りた印鑑を5度ぐらいの角度で時計回りに回すようにして紙に押しつけた。いろいろ頭では考えているのだが、この間は1秒程度にすぎない。音は全くしない。高校球児がバッターボックスでは歓声が全く聞こえなくなるのと同じ現象だ。

 会議室のほぼ全員が見守る中、私はそっと印鑑を紙から離し、宙に浮かせた。静寂を破ったのは私の声だった。「OKです」の「オ」の形で準備していた口は、一瞬にして反射的に「ア」を出す形に変化したが、すでに声帯から「オ」の音が口に送り出されていた。

「おあぁっ・・・・・・」

 そこには、丸く塗りつぶされた日の丸のような印影が残っていた。印鑑が上下逆だった。